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ホラーの帝王S・キング『ミザリー』ってどんな話? 熱すぎるファンの狂態に懲り懲りした経験が詰め込まれた一冊

2024年4月14日

  • ミザリー(文春文庫)"
    『ミザリー(文春文庫)』(文藝春秋)

     ファンはアンチより面倒な存在だ。「ファンビジネス」で生きている人と飲み屋で出会うたび、そんな愚痴を聞かされる。ゴールデン街で知り合ったとある物書きは、「新作が期待と違ったと、読者から苦情のメールが届いた」とため息をついていた。これを読んでいるあなたも、一度くらいは思ったことがあるだろう。こんなに素敵な作品を描いているのだから、作者はきっと人格者だ。大好きな作品の最新話の展開が納得いかない。なぜ作者はあのキャラクターを殺したの、許せない。


     ときに創造主に、ときに作品に、私たちファンは勝手な幻想や期待、失望を抱いてしまう。そんな作家とファンの歪な関係から生まれる恐怖を描いた作品が、スティーヴン・キングの名作『ミザリー(文春文庫)』(文藝春秋)だ。


     大衆向けロマンス小説「ミザリー」シリーズでベストセラー作家となった、主人公のポール・シェルダン。ミザリーシリーズの新作ばかり求められることに辟易した彼は、ヒロインのミザリーを殺してシリーズに終止符を打つ。最終巻の刊行を待つ間に新たな小説を書き上げたポールは、原稿を手に車を走らせていた。しかし途中で事故に遭い重傷を負ったところで、偶然通りがかった元看護師のアニー・ウィルクスに助けられる。アニーは「ナンバーワンの愛読者」を自称する熱狂的なミザリーのファンだった。彼女の家で献身的な介護を受けるポール。しかしシリーズ最終巻「ミザリーの子供」が発売されたことで、結末に納得のいかないアニーに“書き直し”を強要されることとなる。


     雪で閉ざされた閉鎖空間に監禁され、自分ひとりのために結末を変えた作品を書けと脅される。目を背けたくなる拷問描写も相まって、あらすじだけを追うなら本作は立派なサイコスリラーだ。しかしただのスリラー小説でないことは、じっくりと読めばすぐに気づくだろう。作家とファンの関係、距離、影響力。それらを問題提起している作品なのだ。


     本作がスティーヴン・キング自身の経験に基づくことは、文庫版あとがきで訳者の矢野浩三郎氏が指摘する通り。「世にファンと称する人種の狂態は、古今東西変わるところがない、と言ってしまえばそれだけのことだが、キングはこれに悩まされ、懲りごりしたようである」と氏が述べるように、本作は“ファンに悩まされる書き手の苦悩”が生々しく描かれている。


     本作が発表された1987年当時は、限られた一握りの人間しか光を浴びられない時代だった。それゆえ一般読者は『ミザリー』を読んでも、そこに込められたキングの叫びや「懲りごりした」感情をリアルなものに感じられなかったかもしれない。SNSで誰もが「偶像/作り手」になれ、ファンとの距離がぐっと縮まった今、本作は「書き手とファンの距離」について我々に改めて問いただしてくる。ファンを持ったことがある人はポールの苦痛や恐怖に共感できるだろうし、誰かの「いちばんのファン」だという気持ちを持ったことがある人なら、アニーの言動に自分自身の嫌な部分を見出せてしまうはずだ。


     ミザリーシリーズの書き直しを望むアニーによって、ポールは書き上げたばかりの新作小説の原稿を己の手で破棄するよう求められる。文筆業で生きる人間としては、直接的な身体への拷問よりもおぞましさを感じたシーンだ。作家とファンのパワーバランスが完全に逆転した瞬間を、作家にとっていちばん効果的な方法で描いた場面ともいえよう。


    「ホラーの帝王」の異名を持つベストセラー作家が、ファンという生き物を象徴的に描いた『ミザリー』。何かひとつのきっかけで、ファンはいとも簡単に“攻撃者”へと切り替わる。そんなネット上の光景が日常的になった今の時代にこそ、読んでほしい1冊だ。


    文=倉本菜生

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